駐在員のメンタルヘルス~企業ができる支援とは~
2026.06.12渡航者医療センター松永優子
新年度が始まる4月を前に、異動のシーズンを迎えています。海外への駐在が決まった方や、その支援業務を担う方もいるでしょう。言語や生活習慣に加え、仕事の進め方も日本と異なる海外では、駐在員にストレスがかかりがちです。
医療事情が日本と同様とはいかない中、駐在員のメンタルヘルスに対して企業はどのような支援ができるでしょうか。多文化間精神医学に詳しい松永優子医師(東京医科大学渡航者医療センター非常勤講師)が解説します。
病気の早期発見、機を逃しやすい海外
海外赴任では、日本では経験しないような大きな環境の変化が駐在員と家族に起きます。たとえば日本に住んでいれば、仕事、言語、文化、人間関係、そのすべてがいっぺんに変わることはないでしょう。しかし、海外赴任ではこれらの変化が同時に起きます。
そして海外では、現地の医療機関にアクセスするハードルが格段に上がります。たとえば日本では「調子がおかしい」と思えば、自宅近くのクリニックに行ったり、産業医に相談したりできるでしょう。
しかし海外ではあらゆる診療科で、どの病院に行ったらいいのか、誰に相談したらいいのか、情報収集もままならないことがありえます。そのため「ここを超えたら病院に行く」という閾値が上がりがちです。そして、そうこうしているうちに症状が悪化してしまうケースも多くあります。
精神科に限らずどの病気でも、早期発見が早期回復につながりますが、海外の駐在員はその早期発見の機会を逸してしまうことがよくあります。では企業は駐在員に対してどのような支援を行うことができるでしょうか。
赴任前、「予習」の機会提供を
これは駐在員本人にもよく伝えることですが、赴任前の「予習」は大切です。予想外の出来事も知識として仕入れてあれば「こういうことか」と大きななショックを受けずにすみます。身近なところでは現地在住の方のエッセイや、旅行記を読むことをお勧めしています。
また、会社として赴任前に短期出張で2週間ほど現地に派遣し、社内で業務を体験するといった機会を提供している企業もあります。それができない場合でも、現地で暮らしたことがある従業員と面談の機会を作るなど、なるべく前知識を伝えていただくことは有効です。
同時に、現地で経験するであろう精神面の変化を、本人と家族に伝えておくことも大切です。異文化の中に身を置けば、良くも悪くもストレスが加わります。赴任初期は「ハネムーン期」で、わくわくすることが多いでしょう。その後、言葉の問題や現地の習慣になじめずに落ち込み、その後慣れていくというような段階があることを理解していると、本人も、赴任後の自身の精神面を俯瞰することができます。
個人差もありますが、どなたでも駐在後の最初の半年間は様々なことが起こりえます。それに対して、ある程度は「想定内」だと思えるよう、駐在員に起きうる精神的な変化をあらかじめ伝える機会があると良いでしょう。
緊急時の頼り先、赴任前に「顔見知り」に
同時に、駐在員本人が「ちょっと様子がおかしい」と思った時に連絡できる先を伝えておくことも「閾値」を下げるために重要です。産業医がいる企業であれば、渡航前に、一度産業医と面談して顔見知りになっていれば、赴任後に不調を感じた際、駐在員が連絡を取るハードルは下がります。EAP(従業員?援プログラム)など外部の組織と連携している企業もあります。連絡先などを提供し「何かあったら、深刻にならないうちに連絡を」と伝えておくことも大事です。
これも「予習」の一環になりますが、現地の医療事情も伝えて頂けたらと思います。多くはありませんが、日本人のカウンセラーがいるクリニックや、日本人通訳を付けられる医療機関をリストにして渡しておくと、駐在員が「会社に知られずに受診したい」と考えた時に役に立ちます。
高いコストをかけずにできることもあります。たとえば日本の外務省が提供している「世界の医療事情」は、現地の公的な機関と衛生・医療事情やかかりやすい病気が紹介されています。場所にもよりますが、信頼できる医療機関の紹介もあります。こうした情報を知っているだけで、駐在員と家族には大きな安心材料となります。
また、厚?労働省の「こころの?」は、職場のストレスのセルフチェックができるほか、電話やメールでの相談ができます。所定の訓練を受けた産業カウンセラーなどの相談員が対応しており、メールなら海外からでも相談は可能です。こうした公的機関の?援情報などをまとめて提供するのも1つの方法です。
オフの時間、本社主導で設定を
経験のある方なら分かると思いますが、駐在員の業務はオンとオフの境目が曖昧になりがちです。時差もあり、日本から昼夜問わず連絡が来ることもあります。できることなら日本の本社が主導して、駐在員について「この時間帯は休み」と定めてその時間帯の連絡は避け、駐在員が休息できる時間をしっかり確保することが望ましいです。
赴任後、何もなくとも連絡を
駐在員の赴任後は、何もなくとも定期的に連絡をして様子を尋ねるなど、コミュニケーションをつなげていくと良いでしょう。事業部門ではなく、中立的な立場の人事部や産業保健部が請け負うことが望ましいです。
そして、たとえばメールなら毎回、末尾に「何かあった際はこちらに」と、産業医やEAPの連絡先などの情報を記載することも良いでしょう。何もない時にはこうした情報は読み?ばされますが、記憶に少しでも残っていれば、いざという時に連絡をとることができます。
緊急事態、見極めのポイントは
さきほど、最初の半年間はある程度「想定内」と記しましたが、例外もあります。たとえば、希死念慮が高まっている場合や、「ある組織に盗聴されている」というような、現実とは考えにくい発言が?られる場合は、すぐに医療機関につなぐことが必要になります。日本への帰国がベストですが、難しい場合は誰かが付き添って医療機関を受診する必要があります。
本人からSOSが出た場合も同様です。原則として、帰国し専門機関で状況を確認することが望ましいです。たとえ駐在員が現地語に堪能で現地で医療機関にかかっていたとしても、文化的な事情が異なる場合があります。休職などの判断は、その精度を上げるためにも母国である日本で行うことが良いでしょう。
そして、うつ病も双極症も「タフだからかからない」「弱いからかかる」というものではなく、「誰にでも起こりうる」という認識を持ち、それをきちんと従業員に伝えて頂けたらと思います。
たとえば環境の大きな変化、業務量の多さ、?間関係のトラブルなど、どれか1つだけなら、耐えられることもあります。しかし、複数のことが重なると「もう無理」と感じやすくなるものなのです。決して「弱いから」ではない、と本人と周囲が認識することが必要です。
家族のケア、忘れずに
企業には、駐在員だけでなく、その家族のケアにも目を配って頂けたらと思います。海外では家族が?きなよりどころになるため、家族に何かあれば、それは駐在員のパフォーマンス低下や帰国の要因にもなりえます。
ただ家族に対するケアについては、まだ定まったルールがなく、家族にまで目が行き届いていない企業もあるでしょう。まずは「家族も企業に相談できる」と定め、家族からの相談にもオープンである姿勢を作り、それを家族に伝えていくことから始めると良いでしょう。
たとえば、学校になじめない子どもの場合を考えてみましょう。日本なら、学校の先生や地域の支援センター、時には配偶者の実家に一時的に滞在するなど様々なリソースがあります。しかし海外ではこうした支援の情報やリソースが限られ、家族の中で問題を抱え込んでしまいがちです。
駐在員にとっても家族にとっても、1番つらいのは、相談相手がいないことです。現地に駐在員の配偶者向けのサークルなどがあれば会社側がそうした情報を把握して伝える、また駐在員同士だけでなく、帯同経験のある家族から、駐在予定者の家族が話を聞ける機会を提供することが大切です。また、臨床心理士が海外に住む子どもの心の健康をサポートする目的で組織された非営利の「With kids」などもあります。
日本と事情が異なる海外駐在においては、「口コミ」は大きな力を持ちます。信頼できる医療機関や、子どもの教育に関する情報、そして和食の材料が買える食料品店といった、企業側から見たらささいに見えるかもしれない話も、帯同家族、ひいては駐在員の大きな心の支えになります。駐在員同様、家族にも幅広い情報提供をしていくことが求められています。
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